2009年9月30日水曜日

意識の先1

家で少し夕飯を食べ、うとうとしてしまった。外を見ると、わずかに雨。もう、今日は仕事場に戻らなくていいかなと思ったが、このまま家にじっとしているのもなんかいやだし、これくらの雨なら打たれるのもかえって気持ちいかなと、戻ることに。締め切りの書類もあるし、やりたいこともあるし、まだ体力はあるし。

秋の自然は、いろいろうつろうから、そういうのを感じるたびに、いろいろ考えたり、思いだしたりする。

 

道路を走る車をみながら、思いは巡る。

走り、歩き、長い道のりに気が遠くなりながら、それでも無心になって、いや無心になりきらなくても、とかいろいろな邪心が入りながら、はいつくばりながら、俺はもう死んだ方がましだとかちょくちょく思いながら、いいこともあって、悪いこともあって、わけはわからないが、とにかく前に進む。

いつしか、意識はずっと続く道で、ただひたすら歩き続けることにのみに収束していく。決して死んではいないが、激しい起伏はなくなり、ただただひたすら思いはその先にある。

最近は最近で、なにかわかったような気になることもあるが、まだ、わかってないこともあることにも気づく。この道の終わりに何があるのか、終わりの頃に何を感じるのか。何も変わらず、突然意識が途切れるだけかもしれないと思うと少し嫌だが、そうじゃないんじゃないかという予感もある。

そんなところに行きついて、意味があるかわからないけど、意味がなくても行きつくんだろう。

2009年9月29日火曜日

意識の先0

ただただ、前に進む。でも、進んでいくことに何の意味があるのかよくわからない。わかっていると思っていても、わかったような気になっているだけだと思う。どこかでそう自分を思い、あきらめながらやっているような気がする。

惰性で進んでいるだけともいえる。でも、ここまで続けていると、単に惰性だけではないという気がする。だから、罪悪感だけではない。そのせいで、永遠に続く麻薬のようになっているのだろうか。

本当に好きでやっているかなんて、よくわからない。結局、そんなの自分で意識したってよくわからない。っていうか、本当に好きってなんだ?何か目的があって続けていることは、好きでやっているのに入るのか?ちょこちょこっと確かめてみたいって言うつもりで、その連続でやりつづけることは、好きでやっているっていうのに入るの?結果が良かろうが悪かろうが続けるのが好きって事?
別に誰も、本当に好きじゃないとやっちゃいけないなんて言ってない。そんなの決められない。そういうことをいう奴にわかられたような顔されたって、大抵どうってことない。結局、そういう意地をはりつつも、そんなものだけじゃ続かない。だから、そんなこともどうでもいい。

ただ、一歩、一歩、踏み出すだけだ。それは好きだからやっているっていうわけでもないような気もするが、嫌いでもないし、どっかで好きな部分もある気もする。

そういうことも含めて、意味もないのに考え、考えたことも忘れ、そのうち思考は衰えて、体感的は駄目な自分を感じながら、なにかをうらんだりして、うろうろして、ぎりぎり何か見えてくると、手のひらを返したように、走り出す。

2009年9月5日土曜日

マーティ曰く

なんかモームスの海外ライブがテレビでやってて、なんとなくみてたら、マーティーフリードマンがアメリカ人的視点でコメント役として登場。

なんか、日本人の年をとってもかわいい感じでいくのが、アメリカにはないんだと。それが日本の文化にはあって、いいと思うんだと。マーティ曰く、

「アメリカ人もそのうち悟ると思います。」

悟るって…。