2010年5月9日日曜日

Googleの先にあるものの妄想

you tubeを適当に見ていたらGoogleの音声検索の動画があった。



前からGoogleの音声検索の存在は、噂程度で知ってたけど、あらためてびっくり。やはり、どうやってるのかが気になったのでググってみると、音声をサーバー側で処理しているそうだ。やっぱりGoogleだからユーザーが使った音声データをどんどんためて、どんどん性能が良くなるみたいなことをしてるんだろう。確率的な処理らしいから、ベイズなのかな。

まえに、これからの時代、HPCの個人利用が現実化してくるんじゃないかと、うだうだいっていたが、これなんかまさにそうだ。もうすでに実現していたっちゅうことだ。

この音声検索を実行するには、端末の計算性能は全然いらない。必要なのはGoogleの持っているサーバーの計算能力とアルゴリズムとサンプルの データの蓄積だ。あとは、ユーザーが貧弱なモバイル機を持っていればよい。

それにしても、これはもうある種の脳が、Googleのサーバーで作られているようなもんだ。従来の単なる情報処理とは呼べないような、関係付けられた 膨大なデータから認識を行うという意味で、ある種、脳型だ。
 
そういえば、話はとぶが、この前Googleのハードやソフトに関するweb記事をみてちょっと面白かった。Googleは、コモディティーサーバーを膨大な数つなげて、検索に必要な処理を行っているらしい。これは、コモディティー化の恩恵を活用しているという点では、今のHPCの主流のクラスタと似ている。自分は気づいていなかったが、実はGoogleは、コモディティー化を活用して成りあがった企業なのだ。

しかし、Googleのサーバーと、普通のHPCコモディティークラスターとちょっと違う点は、故障対策についての考え方で、基本的に壊れてもいいように、安いハードで冗長性を持たせることで、実現してるそうだ。それをスケールアウトっていってたかな。個々のサーバーがそれぞれ情報を冗長化する。それで大規模並列で実行する。

これは、脳の情報処理と非常に似ているところがある。神経細胞ひとつが単一の情報を表現するんじゃなくて、神経細胞集団が冗長にひとつの情報をコードしているといわれている。神経細胞は毎日、結構な数が死んでいるが、それでもあまり困らないのは冗長性があるからだろう。それで、やはり大規模並列で処理を実行している。

別にGoogleが脳にヒントを得て、スケールアウトの方法に行きついたわけではないだろうが、Googleも脳も、ある種の認識処理を目指した結果、似たような構造や仕組みに行きつくいているようで、なんとも面白い。

Googleを見て、先の将来どのようなことが起きるかを考えるのは意味があるだろうし面白そうだ。

今ですら、Googleにあるサーバーに対して、世界のどの人間も検索能力では勝てない。人間を超えた知性に似たものが、もう毎日無くてはならないものとして働いているのだ。この"知性"は、これからまだまだ拡大するだろう。音声認識、言語認識、画像認識、動画認識、もう、本当、脳みたいだな。すでにあるかもしれないが、脳にはない感覚に関する領野(=サーバー群)や高次情報処理領野ができていくだろう。

そうすると、ますます、Googleのサーバー群でしか処理できない情報というのがでてくるに違いない。一体どこまでその進化が続くのか想像できないが、計算機の進化、ネットの成長はまだ10年は最低続くだろうし、この手の認識系のサービスはまだはじまったばかりで、当面は進化は続くだろう。とりあえず、あと10年後には100倍の計算リソースを使って、より高度な認識か、もっと進んだなにかをやっているはずだ。

認識系が発展してなにができるのか、具体的にわからないが、たぶんできてしまえば使い道はいくらでもある。認識のサービスは、知的労働をやってくれるようなもんなんだから。ロボットは認識系の、恐らく最も有望な適用方面だが、そのロボット産業がこれから発展するのは間違いないから、その需要も莫大にある。


今は、Googleのような認識に近い情報処理を行う、巨大な脳型処理機構(といっていいか知らないけど)は、ほぼ一つしかない。そういう企業が、今後もGoogleしかないんじゃあ、いろいろ問題だ。多分、そうはならなくて、Googleに対抗する異なる巨大な情報処理機構を形成する組織が作られていくはずだ。そして、それら情報処理機構間での相互作用、競争、戦争が問題になってくんじゃなかろうか。

そうするとより優れた認識処理を実行するということが、一つの価値基準になっていくだろう。そういう未来が来たら、きっと真の脳型情報処理が必要とされるのじゃないかと思う。

いつそんな未来が現れるのか。もちろん、永遠に来ねえよってことはあるけどもさあ。でも、あと10年でひょっとしてとは思うな。5年じゃ無理だな。5年後には、モバイルとクラウドの波が最高潮に達しているくらいだろうか。そうした状況に乗じて、新しいサービス企業が出始めるだろう。そこらへんで、Googleに対抗できる組織がでてくると面白いことになりそうだ。

はーい、妄想おつ

2010年5月5日水曜日

絵画という内部表象の記録

昔、自分の青い時代に、ピカソの絵と発言が並べて書いてある本を買って読んだことがある。あの本まだどっかにあるだろうな。今も当時も、全然、芸術とかわかってないんだけど。

絵のことはわかるような、わからないような感じだったんだけど、ピカソの言葉には今でもよく覚えている印象的なものがいくつかあった。そのひとつに、あいまいにしか覚えていないが、

”いつか、私の絵を科学者(脳科学か、心理学者だったか?)がみて感謝するときがくるだろう”

みたいなことがあった(はず)。ピカソは脳内の表象的なものを出力しているにすぎないみたいなことを確か言っていて、当時、(ピカソの)絵って、そういうもんなんだなあと、すこし納得したような気がした。でも、まあ、科学者がピカソに感謝なんかすることにはならねえだろうと思っていた。

と、最近、ミラーニューロンの本を読んでいて、アフォーダンスのことを考えていたら、たまたまピカソのことを思い出して、ピカソの絵画に描かれている、ゆがんだり、デフォルメされたりしてる、非現実的な描写は、ある種、アフォーダンスのようなものを、ピカソなりに描いていることなんだなとふと思い至った。きっと彼は、現実世界の描画する対象に対して、彼の脳が持ついろいろなアフォーダンスを、彼なりのルールで表現したのではないだろうか。彼は、ひょっとすると、かなりそういう脳の中の情報表現、アフォーダンスを直接見る能力をもっていたのかもしれない。

それにしても、昔はまさか自分が神経科学関連に進むとは思っておらず、こういう形で、ピカソの言葉を実感する日が来るとは想像だにしなかったなあ。

アフォーダンスという概念は、普通の人にとって、多分なんかまったく理解しがたいという感じはなく、誰でも脳内に持っていて、普段無意識に使っているから、考えてみればわからなくもないというものだろう。でも、それを、科学を知らない、芸術家が自分の内なる世界を観察して、考察することで、独自に見いだして、自らの方法で表現したというのは、偉い。ピカソはやはり偉大だ。

ピカソの絵を研究対象とするまでの境地に、まだ自分は到達していないが、それどもちょっと、なにか納得したので、感謝したい気持ちだ。世の中、なにがどうつながるかわからなくて、面白いな。